ピンク・レディーが絶対にミーとケイの二人でなければならなかった理由

「UFO」「サウスポー」「ペッパー警部」「渚のシンドバッド」「SOS」・・・などなど、たくさんのヒット曲を生んだピンク・レディー。
彼女たちは1970年代後半に、前例のない派手な振り付けとユニークな歌詞がヒットし、爆発的な人気を得たデュオである。

ピンク・レディーの「凋落」への疑問

全盛期から40年がたった今も、おそらくほとんどの50代が彼女たちの曲を踊れるし、現代の若者だって、必ず一度はどこかで彼女たちの曲を耳にしている。
いまだに音楽番組で当時の人気ぶりを幾度となく回想されるし、夏になれば「サウスポー」が甲子園に響きわたる。「UFO」はCMでも聞き馴染みがあるはずだ。

社会現象を起こし、あまたの記録をぬりかえたピンク・レディー。その楽曲が時代を超えて今でも愛されていることは、平成生まれの私の耳がよく知っている。

しかし、ピンクレディーといえばその輝かしい栄光とともに、その後の転落についてもしばしば語られる。
1978年に「UFO」でレコード大賞を獲ったあとあたりから、人気が急落してしまったのだ。
売上はみるみる落ちていき、1980年にはついに解散を決意。しかし、翌年に行われた解散コンサートでは空席が目立ち、あの爆発的な社会現象を起こした歌手の幕引きとは思えないほどの閑散としたものになったとも言われている。

この人気の低下は、紅白歌合戦出場辞退や恋愛トラブルなどが相次ぎ、マスコミからの激しいバッシングを受けたことが原因だったといわれている。

しかし、「えっ、たかがその程度のことで?」と思うのは私だけだろうか。

不倫、クスリ…などの非道徳的なことですら、なかったことのようにして活動している歌手はたくさんいるし、それを承知で追いかけ続ける固定ファンはいるものだ。

派手にテレビに出なくとも、言ってみれば数年に1回アルバムを出すくらいで、細く長く音楽活動を続けているような同年代の歌手もたくさんいる。

これは感覚的な話でもあるが、私の周りの平成生まれの昭和ポップス好きたちの中でも、山口百恵ファンや沢田研二ファンに対して「ピンク・レディーファン」には正直なかなか遭遇しない。

ピンクレディーは、なぜ固定ファンを作れなかったのだろうか。なぜ、「大衆のため」から「追いかけてくれるファンのため」にシフトして、細く長く歌手活動を続けるということができなかったのだろうか。

ピンク・レディーが歌手活動を継続できなかった原因(推察)

ピンク・レディーが絶対にミーとケイの二人でなければならなかった理由

原因を推測してみた。

原因1・ファンの多くが子供だったから

ピンク・レディーは、その振り付けを子どもが真似したことから人気に火がついた。子どもは残酷なもので、飽きるのが早い。目新しいアイドルやキャラクターが出てくれば、そちらに飛びつく。
そしてそんな子どもたちがメインのファン層だったために、固定ファンがつきにくかったことが考えられる。

原因2・当時の芸能界で売れるにはテレビしかなかったから

現在はSNSがあるために、マスメディアに依存せず自らの意志とタイミングで発信することができる。その人が発信してさえいれば、いつでも気になる人の動向を見ることができる時代だ。

しかし1970年後半は、「テレビに出ていること」が人気のステータスそのもの。テレビで見なくなってしまうとその人の情報をキャッチすることは難しいし、自然と大衆の興味もなくなる。そのぶん当時の大衆は今より飽きっぽく、残酷だったのかもしれない。
今よりもよほど、テレビで売れることがすべてだったのだ。当時はそれ以外の道がなかったということも、彼女たちが細く長くのアーティストにはならなかった一つの理由だろう。

原因3・あまりにも売れすぎたから

どうのこうの理屈をこねても、どうしようもないものがある。
ピンク・レディーはあまりにも爆発的に売れてしまった。さらにレコード大賞まで獲ってしまったために、物語は完結してしまい、もうこれ以上の快進撃を続けようがなかったともいえる。
大きく膨らんだ風船は、しぼんでいく速度もまた早い。

原因4・本人たちの個性が見えづらかったから

私が言いたいのはこれである。ミーとケイはかわいいし歌も踊りも上手いけど、素朴すぎた。

当時人気だったオーディション番組「スター誕生!」で合格し、ふたりは1976年にデビューした。
派手な振り付け・派手な衣装の印象があるピンクレディーだが、初めからそうだったわけではない。オーディションでは「クッキー」という名で、なんとも素朴なおそろいのオーバーオールを着て、フォークソング調の「部屋を出てください」というほぼ無名の曲を歌っている。
人々の目には「歌はうまいが個性がなく、平凡なデュオ」に映ったのではないだろうか。
(ちなみにこれは初々しさを出すための戦略だったと、後ほど語っている)

しかし、ミーにもケイにも、どうしても歌手になりたいという強い思いがあった。入院中だったスタ誕関係者の病室に「予選会に出させてほしい」と自前の衣装を着て懇願しに行ったというエピソードもある。

歌も、踊りも上手い。ガッツもある。足りないのは、わかりやすい個性だった。

そこで生きたのが、阿久悠・都倉俊一の企画力

どうにか売れさせてあげたい。どんな色に染めてあげたら、売れるのだろう。
スター誕生で合格した後、作詞家・阿久悠と作曲家・都倉俊一は文字通り「イチか、バチか」のコンセプトでデビュー曲「ペッパー警部」を作りあげた。

デビュー当時はまったく期待されていなかったピンク・レディーだったが、土居甫によるかなり大胆な振り付け、都倉俊一のつくるキャッチーなメロディー、そして阿久悠のインパクトのある歌詞が徐々に話題を呼び、売り上げを伸ばしていった。最終的には60万枚の大ヒットを記録している。

それ以降もその「インパクト路線」は続き、出す曲は軒並みヒット。ついにピンク・レディーはテレビに引っ張りだこの人気デュオとなった。

当時は自分たちが実際にどれくらい人気なのかもわからないほど忙しく、睡眠時間もほとんどなかったようだ。ダブルブッキングも日常茶飯事。デビュー後は2年間休みなしだったという。
「UFO」を頂点にレコード売り上げは下降を続け、テレビでの露出は少なくなっていったが、忙しすぎたために「ブームが去るのが楽しみだった」とも語っている。

彼女たちは、そんな時期もきっと持ち前のガッツを持って、歯を食いしばって乗り切ったのだろう。

参考:【ぴいぷる】未唯mie、ピンク・レディー全盛期は「ブーム去るの楽しみだった」 未知が満たす“声春”ステージへ 

そして1980年、ピンク・レディーは解散する。

わずか5年にも満たない活動期間。なぜ、ピンク・レディーは続かなかったのか。

先に挙げたように、「細く長く音楽活動を続けているタイプの同年代の歌手」は存在する。テレビの露出がほとんどなくても一定数のファンがついている人だ。そういう人の特徴として、「声」や「歌唱力」「表現力」、もしくは「性格」などにその人にしかないはっきりとした個性があるような気がする。
(例)長渕剛、矢沢永吉、沢田研二、中森明菜、竹内まりや…などなど(敬称略)

ピンクレディーはデビュー当時、先にも書いたが「歌も、踊りも上手。ルックスも良い。だけどわかりやすい個性がない」グループだった。だからそこに派手でインパクトのある楽曲を合わせて、爆発的にヒットした。

もしかしたら、ブームが終わってしまってからも細く長く売れていくために必要な個性や、「彼女たちにしかできない何か」がなかったのかもしれない。

・・・いや、というよりは、彼女たちの個性を活かすようなプロモーションは最初からなされていなかった。

むしろ、素晴らしい個性があったことに、大衆は気付くことができなかったのではないか。

レコード大賞を観て思う。ピンク・レディーの個性とはなんだったのか

2018年、年末。
1978年にピンク・レディーがレコード大賞を取ってから、ちょうど40年。
年末恒例のレコード大賞で、彼女たちは特別ゲストとして4曲のメドレーを披露した。すでに還暦を迎えたふたりの、およそ6分半、全力のステージ。

その様子はまさに圧巻で、どちらも還暦を迎えたとは信じがたいようなパワフルでソウルのこもったパフォーマンスを見せてくれた。Twitter上での反響は、ネットニュースでも取り上げられた。

40年前よりも大きく足を上げながら、本気で歌い踊る姿は見るものを惹きつけた。
前年、2017年のレコード大賞でもパフォーマンスをした2人だが、一年かけてさらに歌も踊りもパワーアップしているようにさえ見えた。

ここで気づいたのだ。
ピンク・レディーが売れたのは、企画力のところが大きかったかもしれない。でも、それでもピンクレディーはミーとケイの二人じゃないとダメなのだ。

「死んでもいいと思って頑張りました」と、パフォーマンス後にケイは答えた。61歳の体で、プロポーションを保ちながら、おそらく体の衰えも感じながら、それでも踊りきるために、一体どれだけの努力をしたのだろう。
見えない努力をし続ける根気とガッツ、そしてここ一番で世間の期待に120%応える集中力が二人にはあった。

勝手に持ち上げられて、勝手にバッシングされて、マスコミに翻弄されたりと、不条理なことはたくさんあったはずだ。それでもいつも慎ましく、与えられた舞台で最高のパフォーマンスをしてきたのが、ミーとケイのふたりだった。
努力や苦難を見せびらかしたりしない慎ましさが二人にはあった。

2017年のレコード大賞ゲスト出演に向けて、ケイはこう語っている。「阿久先生、都倉先生、なんといっても土居先生の振り付け、この三つが揃って無かったらピンク・レディーという存在はここまで大きくなってはいなかったと思います。」「阿久先生に届くようにパフォーマンスしたいと思います」と。
その言葉通り、2017年、2018年末と2年とおして、最高のパフォーマンスで日本中を盛り上げた。

このケイのコメントはシンプルなように聞こえて、じつは誰にでもたどり着ける境地ではない。歌手としてデビューして数十年も経ったあと、自分がピチピチの10代のときに大人が売れ線で作った楽曲を歌えない(歌わない)人は多い。年齢を重ねているのだから、それが自然なことだ。若いときの楽曲を、求められるままに歌い続けることは当たり前にできることではないのだ。

それでも60代の彼女たちは、必至に歌い、踊り、感謝していた。
そんな自分に与えられた楽曲への深い尊敬と愛情が、二人にはあったのである。

プレゼンターの高橋圭三さんは、ミーとケイの魅力に気づいていた

1978年、ピンク・レディーが「UFO」でレコード大賞を受賞した際、プレゼンターの高橋圭三さんはピンク・レディーをこう讃えた。

美鶴代ちゃん、恵子ちゃんおめでとう!
今、あなた方が夢にまで見たレコード大賞を手にした。どうですか?感激でしょう。
この二人はご存知のようにデビュー以来、圧倒的な人気を誇り続けてまいりました。しかし、その陰には、眠る時間も削って、そして、病を押して歌い続けたということを私たちは知っております。しかしいつでも笑みをたたえ、そして、全力投球で歌いましたこの二人、その慎ましさ、優しさというものは、まさに現代の天使だろうと思うのでございます。
今、全国のお茶の間からちびっ子たちが先頭に立ってワァーッと拍手してるのを聞こえませんか?どうですか?聞こえるでしょう?どうぞ、今まで通りあなた方はちびっ子たちもそして私たちの幸せを思って、今まで通り歌って、天使としての任務を尽くしてください。
おめでとうございました!

きっと近くで関わっていた高橋圭三さんは、二人の本当の魅力に気づいていたのだろう。
しかしテレビで見るオモテの面しか見えない時代には、ガッツや優しさや慎ましさのような個性は、どうしても視聴者には見えづらかったのだ。

そして、そんな見えづらかったはずのピンク・レディーの個性が、年齢を重ねてもなお生放送で(もちろん生歌で)、これ以上ないほどの素晴らしいパフォーマンスをしたことで、今度こそはっきりと明るみに出たのではないだろうか。

現役の、現代の天使。ピンク・レディー

そうして彼女たちは、私をはじめとした平成生まれをも、現代の天使として魅了している。もちろん現在進行形で、である。
先述したように「ピンク・レディーだけのファン」には、確かになかなか会えない。でも、「ピンク・レディーを歌えない平成生まれの昭和ポップス好き」もまた、出会ったことがない。このことが、多くを表している気がする。

現在もその楽曲はさまざまなアレンジを施され、頻繁に新しい形で耳にする。
楽曲が愛され続けているのは明白だが、それだけではない。時代を超えて愛されているのは「ミーとケイによるピンク・レディーそのもの」なのだろう。彼女たちがいまでもパフォーマンスしてくれるたびに、その思いはますます強くなる。

やはりどう考えても、ピンク・レディーはミーちゃんとケイちゃん、あの二人でなければならないのだ。

この記事をシェアする

最近の記事

人気の記事