近藤真彦 ( こんどうまさひこ )
近藤真彦の基本情報
- 生年月日: 1964年7月19日 (60歳)
- 出身地: 神奈川県大和市
- 愛称:マッチ
- 血液型: O型
-
1980年12月12日、「スニーカーぶる〜す」で 16歳のときにデビュー。現在、デビューしてから 43 年たちました。
年表
- 中学1年生のとき、近藤が所属していた少年野球チームの監督の娘が、ジャニーズ事務所にチーム全員が写っている小さなスナップの集合写真を送ったことがきっかけでジャニー喜多川の目に留まる。本人は芸能界に興味はなかったが、母親に「向ケ丘遊園(川崎市の遊園地)に連れて行ってあげるから」と、ジェットコースターを餌に六本木まで面接を受けに連れて行かれた
- 1979年10月放送開始のTBSのテレビドラマ「3年B組金八先生」第1シリーズに出ていたことで、人気に火がついた。しかし、実はジャニー喜多川氏が聞きつけたとき、既にこの番組の生徒役オーディションは終了していた。そこでジャニー喜多川氏が急遽担当プロデューサーに「とりあえず会ってください」と懇願し、10人ほどを無理矢理会わせ、目に止まった3人が「追加入学」する形となった。それが田原俊彦、近藤真彦、野村義男、のちに「たのきんトリオ」といわれる面々だったという。
- 近藤は金八先生のオーディションにて、会場に集まった学生はみんな、ブレザーやセーターなどオシャレな服を着ていた中で、初の本格的なオーディションにも関わらず学校帰りで学生服(しかも長ランにボンタン姿)だった。
- モータースポーツの分野では1984年富士のフレッシュマンレースでデビュー以来、本格的にレーサーとしての活動を開始。「日本一速い男」の称号を持つレーサーの星野一義のもとでレース活動を始め、88年から93年まで全日本F3選手権シリーズに参戦。2000年には自らのレーシングチーム、KONDO RACINGを結成。 設立以来チームオーナー、監督などもこなしながらドライバーとしても活躍している。
- 数々のトライアスロン大会にも参加しており、2015年にはスウェーデンで行われた世界選手権にも出場。結果は、同部門エントリーの76人中64位、総エントリー918人中626位だった。スイム1.5キロ、バイク120キロ、ラン30キロで争う競技で、7時間36分5秒というタイムを残している
- 1994年に結婚し、2007年に1児(男の子)の父となる
- 2021年4月30日にジャニーズ事務所を退所
レコード・CD売上枚数
シングル売上ランキング
発売年 | 曲名 | 売上 (万枚) |
|
---|---|---|---|
1 | 1980 | スニーカーぶる~す | 104.7 |
2 | 1981 | ギンギラギンにさりげなく | 81.6 |
3 | 1996 | ミッドナイト・シャッフル | 70.2 |
4 | 1982 | ハイティーン・ブギ | 60.7 |
5 | 1981 | ブルージーンズメモリー | 59.8 |
6 | 1982 | 情熱☆熱風 せれなーで | 55.6 |
7 | 1982 | ふられてBANZAI | 53.0 |
8 | 1981 | ヨコハマ・チーク | 52.1 |
9 | 1982 | ホレたぜ!乾杯 | 50.2 |
10 | 1983 | ミッドナイト・ステーション | 39.1 |
※累計売上のランキングです。出典:株式会社オリコン(1997)『1968-1997 ORICON CHART BOOK』
近藤真彦の代表作品
代表曲
- スニーカーぶる〜す
- ブルージーンズメモリー
- ギンギラギンにさりげなく
- ハイティーン・ブギ
- ホレたぜ!乾杯
- ケジメなさい
- 愚か者
- ミッドナイト・シャッフル
マッチ(近藤真彦)のエピソード
- 「マッチ」と呼ばれるようになった経緯として、デビュー前に事務所の合宿所で生活していた仲間同士の松原秀樹(べーシスト)が名付けたことを明かしている。「僕が丸刈りで顔が小さくてひょろひょろだったから『マッチ棒』って呼ばれてたんです。『棒』がとれてよかったですよ」と語っている。しかし野村義男は近藤の話を「確実に関係ない」と異論を唱え、「松原さんから『(部屋に)入ってきて何か(芸を)やろう』と言われて、マッチは頭を床に擦り付けるフリをして『マッチ』と行ったのがウケたから」と説明している
- 「スニーカーぶる~す」は104.7万枚の特大ヒットになったが、これはジャニーズ事務所としても史上初のミリオンセールスとなった
活動自粛とカーレース
2020年11月に、軽率な行動をしたということで活動を無期限自粛。その件について、モータースポーツの情報配信をしているメディアではこのように取り上げられている。
ただ今回の報道のなかで、モータースポーツに関わる身として、ふたつ納得できない部分がある。まず、一連の記事内や、これに対し数多くの読者のコメントがつけられているが、そのなかで「趣味のカーレース」という趣旨の発言が見受けられることだ。近藤監督のドライバーとしてのキャリアの初期こそ趣味の延長だったかもしれないが、国内外のトップカテゴリーで戦い続け、さらに現在の日本のトップカテゴリーで活躍するチームを作り上げるのは並大抵の努力でできることではない。
ファクトリーを立ち上げ、スポンサーを募り、数十名ものスタッフを動かし、年間数億円もの活動資金を調達し動かすことが、決して日本ではメジャースポーツとは言いがたい環境のなかで、どれほどの辛苦をともなってきたか。近藤監督とスタッフは、その困難に立ち向かい、日本のモータースポーツを盛り上げてきてくれた。「ならば不倫するな」というのは簡単な話なのだが、趣味や片手間でできるようなことではないことを成し遂げてきているのはまずご理解いただきたい。
【コラム】近藤真彦監督終盤戦参加見合わせに思う、モータースポーツメディアのひとりからの意見 | スーパーGT | autosport web
受賞歴
●1981年
第23回日本レコード大賞 最優秀新人賞「ギンギラギンにさりげなく」
第12回日本歌謡大賞 放送音楽新人賞「ギンギラギンにさりげなく」
●1982年
第24回日本レコード大賞 ゴールデン・アイドル賞「ホレたぜ!乾杯」
●1983年
第25回日本レコード大賞 金賞「ミッドナイト・ステーション」
●1985年
第16回日本歌謡大賞 大賞「大将」
●1987年
第29回日本レコード大賞 大賞「愚か者」
第18回日本歌謡大賞 大賞「さすらい」
関連サイト
参考資料