【追悼】天才かつ事件屋とよばれた、伝説のプロデューサー・酒井政利

2021年7月16日、音楽プロデューサーの酒井政利さんが天へ召されました。酒井さんは60年に至るプロデュース活動の中で、300人あまりのアーティストを世に送り出し、その売上げ累計は約8700億円にものぼると言われています。別名「伝説のプロデューサー」ともいわれている酒井政利さんは、どんなふうにプロデューサーとして活動してきたのか。そしてご本人はどんな方だったのかについて、そのほんの一部ではありますが振り返っていきたいと思います。
天才か変わりものか?酒井政利さんの幼少期
酒井政利さんは、和歌山県に生まれました。兄4人、姉3人の8人きょうだいの末っ子として育った酒井さんは、小さい頃から好奇心旺盛な子どもだったといいます。その旺盛さは少々逸した部分もあり、行きたいところへ行き、欲しいものは買ってもらうまで諦めないというかわいらしいものに始まり、「あるとき無性に食べたくなった」という理由で小学校1,2年のころにはよく炭を食べていたといいます(木炭です)。空腹だったわけではなかったようですが、その奇妙な癖はしばらく続き、気づいた母親は慌てて医者に連れて行ったのだそうです。
一方で、その感性の鋭さは小さい頃からのもので、小学校4年生のときに描いた絵が、県のコンクールにて特選に選ばれます。しかしその絵も普通なら風景を描くところを、池に写っている逆さまのほうの山を描いて、先生を驚かせました。ご本人としては、濁った池に緑の山が光線が重なってやや紫っぽく映るところが「不思議な色だったなあ」と感じて描いたのだそう。
日本コロムビアに就職
映画が大好きだった酒井さんは、立教大学に進学した後、1961年に松竹に入社します。しかしながら映画産業はそのころすでに翳りを見せ始めていて、「今頃ここに来るのは不運。もうテレビの時代だよ。映画はもう作らないよ」と言われてしまい、ガッカリしてしまいます。その上配属されたのは、興味のなかった歌舞伎座映画部。毎日を鬱々として過ごしていた酒井さんのもとに、「コロムビア・レコードが文芸部員を募集している」という知らせが入ってきます。
もともと音楽には関心がなかった酒井さんでしたが、今の日常から脱出できるならと転職を決心します。
このころのレコード会社は成長が激しく、受験者も殺到。3000人の中から2人しか選ばれないという厳しい枠ながら、その中に酒井さんは滑り込んだのでした。
このときの日本コロムビア・演歌班は美空ひばりに始まり、村田英雄、島倉千代子、こまどり姉妹など売れっ子のスターたちが揃っており、まさに黄金期を迎えていました。ポップス班に配属された酒井さんは、そんな華々しい演歌班の活躍を横目に、初めて歌手を担当することになります。その相手は、守屋浩さんでした。
守屋浩さんの楽曲のアイディアはある歌声喫茶から
守屋浩さんはこのとき低迷期を迎えていたこともあり、いったいどんなレコードを出せばいいのかと、酒井さんは思案にくれます。そこで、なにかヒントが得られるかもしれないと、このころ大変な人気があった歌声喫茶に足を運ぶことにしました。
新宿の歌声喫茶「ともしび」を訪ねた酒井さんは、店員に今どんな歌が流行っているか尋ねると、「”大学かぞえうた”なんかがよく歌われています」という答えが帰ってきました。しかも聴いてみると、これがなかなか楽しい歌。ひらめいた酒井さんは元歌を採譜し、歌詞を手直しした後、守屋浩「大学かぞえうた」としてリリースします。
酒井政利の起こした波紋その1:大学かぞえうた
しかしながらレコードが発売されてまもなく、思いがけない事件が勃発します。この歌の歌詞には「軟派張る奴ァ拓大生、世に出て恥かく明大生……」などと、実在する大学名が入っており、これを受けてその大学のOBが憤怒し、新聞に投書してきたのです。
酒井さんはこれに対して(新聞記者に)「この歌は歌声喫茶に行けば、誰もが歌っていますよ」と答えたのですが、これはこれでまた波紋を読んでしまい、とうとう新聞紙面で「大学かぞえうたをどう考える?」という大議論にまで発展してしまったのです。
結局この騒動は大学名を「ン大生」としてレコーディングし直すことで一件落着。さらにこの騒動のおかげで「大学かぞえうた」は予想を上回るヒットを記録します。しかしながら、新米社員にして一曲目から問題を起こしてしまった酒井さんはさっそく”事件屋ディレクター”というあまり嬉しくない肩書を付けられてしまったのでした。
酒井政利の功績その1:愛と死をみつめて
「大学かぞえうた」をヒットさせた酒井さんは、「これまでにないユニークな歌作りをしよう」という思いがひとつの信念になっていました。
そこで、映画にも原作があるように、レコードにも原作があってもいいのでは?と思いつき、ベストセラー本を原作にした歌を制作することを考えます。それがのちにレコード大賞を受賞する「愛と死をみつめて」でした。
原作となる書籍「愛と死をみつめて」の人気ぶりは以前のコラム「【10分で分かる1964年】前回の東京オリンピックが開催された1964年ってどんな年?」でも触れたように、のちに本、レコード、テレビドラマ、映画とすべてがヒットすることになります。
酒井さんが目をつけたのは、まだこの本が売り出されたばかりの頃。これを読んで、「ぜひ歌にしたい!」という衝動に駆られた酒井さんは、早速出版社に出かけ、社長と交渉して独占契約を結びます。このとき酒井さんが大変な勢いで会社に乗り込んだらしく、その様子は「有無を言わさぬような強引さだった」とのこと。もちろん社長は、このときの酒井さんがよもや新入社員だとは思いもしなかったそうです。
テーマ自体が斬新であることもあって、作詞・作曲・歌手もすべてフレッシュなメンバーで制作したいと考えた酒井さんは、日本コロムビアと専属契約を結んでいる古賀政男さんや西條八十さんのような大作家には頼らず、よく会社に詞を投稿してきていた女子大生・大矢弘子に作詞を、作曲もまだ無名だった土田啓四郎を起用します。歌手は、歌唱力があるもののヒット曲に恵まれなかった当時19歳の青山和子。そんな挑戦的な布陣で臨んだこの楽曲でしたが、発売からすぐ大反響を呼び、レコード大賞受賞までに至るのでした。
酒井政利の起こした波紋その2:大先生にどストレートな物言い
「愛と死をみつめて」がヒットした後も、「酒井政利=異端児」という悪評には変わりはなかったといいます。しかしそんなことはいざ知らず、酒井さんは若くて才能のある外部の作家陣と共同作業で仕事を続けていました。もちろん、専属作家の方とのお仕事を全くしなかったわけではありませんでしたが。
そんなときに、大作曲家・古賀政男さんの弟子という歌手のデビュー曲を担当することとなります。しかしその歌を聞いてみると、正直言って、酒井さんにはあまり新鮮味が感じられませんでした。何度か話し合いをする中で、酒井さんはつい、率直な感想を口にします。
「今の時代、古賀先生のお弟子さんということだけで売り出す方法では、あまり話題にもならないと思うのですが……」
古賀政男さんは、のちに国民栄誉賞も受賞する大作曲家。その旋律は「古賀メロディ」という固有名詞で呼ばれるほどの大先生で、酒井政利さんよりも30歳近く年上です。なかなかの勇気がないと言えないセリフです。
このお弟子さんは結局デビューすることなくやめていってしまったのですが、このときのことを酒井さんは、「手掛けた楽曲がヒットしたことにうぬぼれていたわけでもなく、実に正直な感想を述べただけだった」とも語っています(ちなみに古賀政男さんは当然怒ってしまいましたが、3ヶ月後に和解しています)。
プロデュース業にのめり込む日々
そんな日々を過ごしているうちに、いつの頃からか映画への未練は酒井さんの中からすっかり消えていました。楽曲作り・歌手を育てるというプロデュースの仕事の中に大きな生きがいと楽しさを感じるようになっていきます。
日本コロムビアに入社して6年を過ぎた頃から、酒井さんの中に新天地にて仕事をしてみたいという欲求が芽生えてきました。そして29歳のとき、新しくCBSソニーというレコード会社が立ち上がることを耳にした酒井さんはこの出会いに運命を感じ、日本コロムビアに辞表を提出します。
CBSソニーに入社
コロムビアのときと同様、今度は7000人という応募者の中からたった12名という狭き門をくぐり抜けた酒井さんは、無事CBSソニーに入社。24時間が仕事、という毎日を過ごしますが、楽しくて何の苦にもならなかったといいます。
そして1979年にはジュディ・オング「魅せられて」で2度目のレコード大賞を受賞。「愛と死をみつめて」はコロムビア初のレコード大賞でしたが、この曲もまたCBSソニーにとって初めてのレコード大賞受賞となったのでした。
酒井政利の手がけた歌手たち
CBSソニーに入社してから、多くのアーティストを手がけ、世に送り出してきた酒井さん。その一部エピソードを簡単に紹介します。
南沙織
70年代以降、CBSソニーにてプロデューサーとして第一線で活躍をする酒井政利さんですが、そのスターづくりの原点と語っているのが南沙織さん。
今年、南沙織さんがデビューから50周年を迎えたことを記念して、本コラムでも周年コラムを書いていますが、その中にも何度も酒井政利さんのお名前を出しています。「アイドル」という言葉を輸入し、その第一号として南沙織さんを選んだのも酒井さんです。
→ アイドル第一号、南沙織デビュー50周年!
酒井さんは、「南沙織のプロデュースを成功させたことで、私は音楽プロデューサーとしての本当の自信と自覚を持つことができた」「彼女の存在があったからこそ、のちの山口百恵も誕生したと言っても過言ではない」とも語っています。
郷ひろみ
南沙織さんが酒井さんの中で「長女」だとすれば、郷ひろみさんは「長男」だといいます。初めて郷ひろみさんの歌を聴いたときのことを、酒井さんは「その声を聴いた私は、正直にいって仰天した」と語っています。「浪花節的な声とでもいうのだろうか、美形の顔立ちとは不釣り合いな音色だったが、それは一方で不思議な魅力を醸し出していた。天はこの子に二物をあたえたのかもしれない……、私の頭には、そんな思いさえ閃いたのである」。
「よろしく哀愁」のタイトルは酒井作
郷ひろみさんの代表曲でもある「よろしく哀愁」は、レコーディングの直前に作詞を手がけた安井かずみさんから歌詞が届いたものの、ところどころ言葉が抜けていました。このままではレコーディングできない・・・と思った酒井さんは必死に頭をひねり、空白の部分に言葉を当てはめていきます。困ったことにラストのフレーズももれなく空白で、ここに「哀愁」の言葉をぜひ使いたいけれども、「涙の哀愁」ではあまりにありきたり。「しみじみ哀愁」だとインパクトがない・・・
そんな酒井さんの耳に、スタジオの廊下から誰かの「それでは、よろしくお願いします」というやり取りが聴こえてきました。これだ!とあてはめ、完成したのが「よろしく哀愁」だったのです。
山口百恵
1972年の夏、酒井政利さんがオーディション番組「スター誕生!」の番組ディレクターの机の上に合った応募者の写真を眺めていると、山積みの写真の中の一枚が目に止まります。それは白いブラウスとミニスカートというごく普通の装いの女の子の写真でしたが、その清々しい表情に惹かれたのでした。彼女のデビューに当たって社内の会議では「ちょっと地味すぎるね」という否定的な意見が多かったのですが、酒井さんの熱意が通じて、「じゃ、酒井くんに一任しよう」ということになったのでした。
青い性路線
山口百恵さんのデビュー後の活躍は知られているとおりですが、とくに酒井さんは「青い性路線」と言われる「青い果実」「禁じられた遊び」「ひと夏の経験」などの楽曲プロデュースを手がけていきます。冒険的な試みだとは思いつつ、百恵さんの容姿は日本的だし、体型やリズム感も少々気だるい。それでいてはっとするような清潔感を持っていた彼女がショッキングな歌詞を歌うと、融和してちょうどよくなるのではと考えていたといいます。
▼そのほか、多くの歌手のプロデュースを手がけています
近年の活躍
再三、他社から誘いを受けたこともありながら、酒井さんは最後までCBSソニーに所属し、1996年に卒業します。その後は酒井プロデュース・オフィスを構え、様々な企画に関わりつつ、ワイドショーのコメンテーターとしても活躍しました。
独立したら仕事を選びながらゆっくりと・・・と考えていたのもつかの間、北海道の「新・冠レ・コード館」の名誉館長を務めたり、日本航空学園「ミュージカルアカデミー」の校長も引き受ける一方で、もともと学んでいた心理学を50歳からもう一度勉強し直し、カウンセラーとしても活動。ソニーを退職してからも休む暇もないほど忙しく過ごしています。
その他20年にわたって、古賀政男音楽博物館にて「J-POPの歩み」というイベントを行うなど、講演活動もこなしています。1960年代にぶつかりあったあの古賀政男さんの記念館にて長寿イベントを行っているというのも、事件のあともちゃんと交流があったのかなと想像することができますね。
そして2021年7月16日、伝説のプロデューサー・酒井政利さんは心不全のため東京都内の病院でお亡くなりになりました。85歳でした。
今年に入ってからもNHKの番組に出演していたり、イベントにも出席していたりと精力的に活動していたため、驚かれた方も多かったようです。持病のアレルギー疾患のために検査入院していましたが、急に容体が悪化したとのことでした。
そんな酒井さんと関わりのあった多くの方から、追悼コメントが発表されています。
寄せられた追悼コメント
どれだけ泣いても、涙が止まりません。私の大好きな酒井さんが、もういらっしゃらないなんて。歌手としての私を信じて制作してくださった『魅せられて』は私の宝物です。残された者が輝いて歌うことが一番の供養であり喜んでいただけると思い、歌い続けていくつもりです。いつまでもずっと空から見ていてください。ご冥福をお祈り申し上げます。
ジュディ・オング
酒井政利さんの突然の訃報にただ驚いています。つい先日も、番組の中で山口百恵さんに作った『いい日旅立ち』の誕生秘話なども元気に話してくださっていました。
プロデューサーとしての彼の素晴らしい発想は、まさに酒井さんならではのものだったと思っています。同じ時代を共有できたこと、そして刺激をたくさんくださったことに感謝しています。心よりご冥福をお祈りしております。
谷村新司
酒井さんの訃報をお伺いし、とてもショックで涙が止まりませんでした。若いころにお世話になったことが走馬灯のように思い出されます。
『愛と死をみつめて』では、酒井さんが、当時、まだヒット曲がなかった私を歌い手として推薦してくれ、さらに必死になって全国一緒に動いてくれました。酒井さんがいろんなことを教えてくれ、導いてくれ、本当に感謝しております。
最後にお会いしたのは2018年、池袋でやっていた『マコとミコ』というお店にお越しいただいた時でした。すごい立派な花束を持ってきてくださったことを覚えています。その時のお顔は忘れません。本当に残念です。安らかにおやすみください。
青山和子
まとめ
先日お亡くなりになった酒井政利さんのプロデューサー人生について、ほんの一部ではありますが、振り返ってみました。今回はその功績だけでなく波紋を呼んだこともについても取り上げていますが、他にも若者歌手批判をする淡谷のり子さんにそれは違う、とはっきりと物を申したり、2000年頃にもデヴィ夫人と舌戦を繰り広げるなどしているものの、恐れ知らずの酒井さんはこの言動の裏に「自分の考えをはっきり伝えることこそ大切なマナーだと思っている」からだと著書の中で語っています。
本人曰く、やると決めたら執着するほどやりきらなければ気がすまず、三島由紀夫の小説を一冊読むと彼の作品を読み漁るだけでなくそのルーツを突き詰めなければ落ち着かないし、眼鏡ケースが見当たらないと、朝まで探し続けてでも見つけ出さないと気がすまない性格だといいます(本人談)。
しかしながら、文致からもご本人の印象からも血気盛んな印象はまったくなく、私自身も酒井さんの出演されるイベントに足を運んだことがありますが、どちらかというと「思ったことを言ってるだけなのだけれど」とでもいうような屈託のなさまで感じるほどでした。ネット記事などを読んでいると、もしかしたら摩擦もあったのかな、と思うようなものもありましたが、それは天才的な仕事ぶりと表裏一体。酒井さんのように自分の信念を貫くには、間違いなく痛みもあるのだと感じました。
現代は、ささくれがあるとすぐに救急車を呼ぶ……とでもいわんばかりの燃え上がり方で炎上してしまう時代です。そのために、当たり障りのないものばかりが増えていってしまうことを、個人的には内心危惧しているのですが、そんなものをものともしない、そんなことでは揺らぐことのない信念があるところにこそ、伝説というものは生まれるのかもしれません。
参考資料
酒井政利「プロデューサー 音楽シーンを駆け抜けて」時事通信社(2002)
濱口英樹「ヒットソングを創った男たち~歌謡曲黄金時代の仕掛人」シンコーミュージック(2018)
谷村新司「刺激をたくさんくださったことに感謝」酒井政利さん悼む
青山和子「涙が止まりません」酒井政利さんの訃報受け「本当に感謝」
ジュディ・オング「『魅せられて』は私の宝物」酒井政利さん悼む
第140回 酒井 政利 氏 音楽プロデューサー | Musicman
酒井政利オフィシャルサイト|酒井プロデュースオフィス