松田聖子「瞳はダイアモンド」の歌詞考察【失恋ソング界のド名曲!】
「瞳はダイアモンド」は松田聖子さんの大ヒット曲のひとつで、ファンからすれば言わずと知れた曲。1983年に発売されてから35年以上の時が経っているわけですが、平成生まれの筆者(さにー)もこの曲大好きです。
この曲について語らせたらたぶん右に出るものはいないくらい(無駄に)フカヨミしている人間だと思うので、歌詞に秘められた意味についてめちゃくちゃに考察してみました。
松田聖子「瞳はダイアモンド」ってこんな曲
聖子ちゃん初の失恋ソング
松田聖子の15枚目のシングルであり、「聖子の楽曲では初めての本格的な失恋ソング」とも言われている「瞳はダイアモンド」。
これ以前の聖子ちゃん楽曲を考えてみると、「青い珊瑚礁」「白いパラソル」「渚のバルコニー」のような「夏!海!キャピ!!!」みたいな明るい題材が多めです。
しかしながら、この当時聖子ちゃんは21才。シングルにして15枚目。
16〜7歳でデビューしてくるアイドルがわんさかいることを考えると、正直アイドルとしては成熟期に当たる時期です。
さらに、1983年は前年にデビューした中森明菜ちゃんがメキメキと力をつけてきていた時期とも重なります。
そんなこともあって、聖子ちゃんにはいち早く「キャピ!」なアイドルからの脱却が求められたのかもしれません。
その証拠にひとつ前のシングル、「SWEET MEMORIES」(「ガラスの林檎」と両A面)も大人の恋の苦くて甘い思い出って感じで、アイドルにしてはかなりマセた題材に挑戦。結果、大ヒットをかっとばしました。
そして「SWEET MEMORIES」に続けとばかりにリリースした「瞳はダイアモンド」こそ、完全にキャピアイドルとの決別を図るためのド直球の失恋ソングでだったのでございます。
松田聖子なのにぶりっ子感を感じない…だと…?
まず、世代の方ならご存知かと思いますが、松田聖子の歌い方の特徴として「しゃくり」があります。
この「しゃくり」、下記のような場所でよく出現してきます。
「♪Ah~(んッ↑)揺れないでMEMORIS」
「♪瞳は~(あんッ↑)ダイアモンド」
私の表現が悪すぎて変態的な描写になっていますが、これらのような声が上ずる?部分が「しゃくり」です。
このしゃくりの効能はというと、ぶりっ子を本物以上にぶりっ子にさせることができるのです。当時聖子ちゃんが女から嫌われる女だったというのも、理解はできます。このぶりっ子しゃくりでど真ん中アイドルソングをブリブリ歌って、男性陣が「うおおおー!!」なんてメロメロになっていたとしたら…
「ムキイィィ!!聖子ちゃん嫌い!!!」
ってなる気も、わからんでもないです。リアルタイム世代なら、私もそう思ってたことだろう。
話を「瞳はダイアモンド」に戻します。
この曲は聖子ちゃんのぶりっ子の象徴である「しゃくり」がお恵みのごとく存分に使われているのに、なぜだかそんな感じがしない。それはなぜでしょう?ということで歌詞を見ていこうと思います。
「瞳はダイアモンド」の歌詞を深読み
「瞳はダイアモンド」の歌詞(タブが開きます)
曲の場面としては、おそらく恋人から別れを切り出されたあとでしょうか。
歌詞が衝撃の始まり方!「愛してたって 言わないで…」
なんと始まった瞬間に失恋という、衝撃の始まり方で曲はスタートします。
主人公の恋人である男は、いったいなんと言って別れを切り出したのでしょうか?
「君のことほんとに、愛してた、ありがとう」
といったところでしょうか。ああ、こういう人大っ嫌い(錯乱)
いや〜だって主人公の女性がなんと言おうと彼の心はとっくに決まっているし、すでに前に進もうとしているってことですよね。もう主人公は過去の人になってしまってる。
もはや「いい恋したな~」ぐらいの感じなんだろどうせ?え?(錯乱)
そのくせ「愛してた」なんて、、笑わせてくれるぜ!!
キミ、そのセリフ、自分に酔ってるんじゃないのかい?! 感謝して別れるのなんて小説だけだぞ!ああ嫌な男!青いというか若いというか。5年後に思い出して恥ずかしくなること必至!
聖子(主人公)次行け、次!と思わず言いたくなる。
歌詞に話を戻すと、この『愛してたって言わないで』というわずか冒頭11文字で、二人の関係性とシチュエーションを想起させるってすごいなと思いますね。
さすが、作詞は日本の作詞界の宝・松本隆氏です。
彼の気持ちが離れていったことに気づけなかった、の描写
冒頭に別れを切り出された主人公。
今までのことが走馬灯のように駆け巡りながら。『いつ過去形に変わったの?』と、「愛してる」が「愛してた」に変わった瞬間を思い返しているような感じですね。
感覚論ですが、恋愛において、「あ。もうダメかもしれない」っていう直感がはたらく瞬間ってあるかと思います。ヒヤッとするような恐ろしい勘が頭をよぎる瞬間で、胸騒ぎよりももっと確信に近いもの。
主人公はそんな『シグナル』を、雨の中で傘を飛びたした時にすでに感じ取っていたんですね。嫌な予感が的中です。
でも、にわかにはそんなこと信じられない。
そんなの嘘だ、何か理由があったはずだ、だってあんなに仲が良かったもの…。そうやって気を取り直す。
友人からの悲しい噂にも、「まさか〜!」と気にしないよう笑い飛ばす一方、「まさか・・ね・・・」という気持ちも拭えない。
心は正直です。理性では大丈夫と言い聞かせていても、直感的に感じ取ってしまった不安には勝てませぬ。そういうときに、人は恋人の携帯電話を見てしまうのかもしれない……知らんけど……
でもあなたの眼を覗きこんだ時
黒い雨雲が 二人の青空 消すのが見えた
そしてこの表現。彼の心の中では多分もっと前から曇り空が差しはじめていたんだろうけど、主人公は気づかなかった。気づいた頃にはもう、遅かった。……ここまで来てしまったら、もう彼の心がここにないということを認めざるを得ないです。
ああ、、、。
松本隆が描いた3つのダイアモンドの意味
サビでは「瞳はダイアモンド」「涙はダイアモンド」「小さなダイアモンド」と、ダイアモンドが3回出てきます。
失恋の歌なのにダイアモンドって、パッと聞いた感じ違和感を感じませんでしたか?
「幾千粒の雨の矢たち見上げながら うるんだ瞳はダイアモンド」
1番では、雨の中傘から飛び出したけど彼が追いかけてくれなかったというシーンでした。彼の心の変化に「別れの予感」を感じてしまった。
そこにさらに追い打ちをかけるように、雨が矢のように降り注いできます。
そりゃ、泣きそうにもなります。でも、まだ泣くには早い。泣いてしまったら、それは別れの予感を認めたことになってしまうから、涙がこぼれないよう天を見上げて立ちすくむしかない。雨の中。そんな姿を想像してみてください。
どうでしょうか。その年齢を通り過ぎた大人ならきっと、その姿は「美しい」と表現したくなるんじゃないでしょうか。だってそんな経験は、人生において何度もあるわけじゃないから。恋というのは苦しみすらも美しく貴重で、このときにだけ訪れる二度とない経験だと知っているからです。
過ぎてしまった人からは、その瞳は、ダイアモンドのように輝くものに見えると思うのです。
「時の流れが傷つけても傷つかない 心は小さなダイアモンド」
ここでは硬度の高い宝石、という意味でのダイアモンド。
人生、生きていれば、そりゃ傷つくときもありますよ。失恋したらそりゃ傷つきます。もう恋なんてしないなんて〜とかなんとか言っちゃうもんです。
でも、ショックな経験をしてもぜったいに変わらないものがそれぞれの心の中にあります。憔悴して卑屈になって自信が持てなくなって…そういう時もあるかもしれないけど、やっぱり変わらない根っこみたいなものが、人間にはみなあるはず。
まだ若くて小さい根っこかもしれないけど、その芽はたしかにあなたの中にあるということと、そんな誰にも傷つけられない大事な部分は忘れちゃダメだよ…という意味で私はうけとっています。
「私はもっと強いはずよ でもあふれて 止まらぬ涙はダイアモンド」
『私はもっと強いはずよ』、このフレーズは間違いなくすばらしい。このひとことに、松本隆氏の誰にも真似できない圧倒的な言葉選びのセンスを感じます。女の子の共感と、男の子の守ってあげたい本能の両方を駆り立てる最強ワードです。感服宣言。
そして、これまで我慢して堪えてきた涙が、3番でついに溢れてしまいます。涙がこぼれたときが終わりを認めた時だと思ってたけど、ついにその時が来てしまった…そんな描写なのではないでしょうか。
主人公、よくがんばったね、って言ってあげたいです。そしてその涙にも価値があると、いつか気づくはずだと。
松本隆が提示した3つのダイアモンドの意味とは
雨に打たれてもなお泣くまいと我慢する主人公の濡れた瞳は、きっと美しいダイアモンド。
まだ小さいかもしれないけど確かにそこにあって、決して変わることのない意志もまた、硬いダイアモンド。
ついに別れが決定的になり、自分を強く持とうとするけどやっぱりあふれてしまう涙、それもまた美しいダイアモンド。
それぞれ主人公・もとい失恋した女の子にむけての「それもまた美しい青春の一瞬なんだよ」というメッセージなのかな、と私はうけとりました。
なんて希望にあふれた、やさしいメッセージなんでしょうか。。
「瞳はダイアモンド」の歌詞のねらいは「全肯定」
これは私の推測に過ぎないのですが、この曲のコンセプトが「失恋」に決まったとき、松本隆さんには、先に「今までにない形の失恋の歌を書く」という意志があったんじゃないかなぁなんて思うのです。
彼はたぶん演歌によくあるような「泣いて、すがって、うらみます~」的な男に依存する女性像はとっくに古いと思っていたでしょう。
それに松田聖子さんはどんなマイナスも自分の武器としてプラスに変えてしまう天才でして、自身のスキャンダルさえ痛くもかゆくもない(ように見える)ほどタフな女性。なにより自分自身で時代を切りひらいてきたアイドルです。そんな彼女に従来の失恋観はどう考えても似合わない。
そんな松田聖子には、どんな失恋を描けばいいんだろう。
そこで出てきたのが「全肯定の失恋ソング」っていうテーマなんじゃないかと思うんです。失恋を恐れる気持ちも、失恋したその瞬間すらも美しいよとした上で、さらにその失恋を糧にして、もっと美しくなれるよという。
まあ聖子ちゃんほどでないにせよ、本来女の子ってそういう賢さとたくましさを持っているはず。恋が終わったとしても、のちのち笑っていい思い出にできるのは女の方だったりします。たぶん。
だから松本隆氏はそんな恋に破れた悲しみは真実として受け止めつつ、その姿もポジティブに全肯定の失恋ソングっていうを描きたかったんじゃないのかなぁ。
松田聖子も、恋する女の子も、やっぱり美しい
この歌の主人公の気持ちになれば、そりゃ、失恋した本人は確かに苦しかろうと思いますよ。これを読んでいる人の中にも「失恋ソング おすすめ」とかで検索してたどり着いた人もいるかもしれない。あなたはたしかに辛かったね。傷ついたと思うよ。
そんな人に言ったら失礼なのかもだけど、それでもやっぱり君は美しい。いやむしろ、傷ついているからこそ美しいのかもしれない。それは、歌っているのが聖子ちゃんだからではないはずだ。
女の子なら誰にも、この主人公と同じ意地がどこかにあるはずです。強くありたいけど、弱い、もろい。泣いたら負け。涙は最後までとっておく。女にだってそんなプライドはあると思うんです。
でも本当は、そんな自分を全部ひっくるめて受け止めてほしい…。涙があふれてしまうときも、やはりあるのですから。松田聖子は、そんな世の中の女の子の代弁者でもあると思います。女の子の憧れる「これぞ女の子」に忠実すぎて、ぶりっ子と言われてしまうだけで。
失恋の話なのにほとんど暗さを感じないし、「しゃくり」まくってるのにぶりっこ臭さも感じない。それは、聖子ちゃんが失恋する主人公を演じながらも、一方でこの曲を聴く失恋中の女の子を全肯定で励ます存在でもあるからではないでしょうか。
『私はもっと強いはずよ』と言い聞かせる強がりな女の子に、「そんな姿も見てるから、大丈夫」「その涙にもたしかな意味はあるよ」「だから今は思い切り泣いていいよ」と松田の聖子が語りかけている気がするんですよね。
こんなん、女性ファンは増えますわ。大人のファンも増えますわ。アイドル脱却、大成功です。いやはや松本隆、おそるべし。